コーヒーブレイク②<研修医から大学病院勤務まで>

身の上話の後半になります。

①研修医になりまで

僕が大学を卒業する数年前から、臨床研修が義務化されました。初期研修医と呼ばれています。この義務化の前はどうなっていたのか、すごい世界でした。大学を卒業すると、何をやりたいのかを決めます。決められない人は人脈で決めます。クラブの先輩がいるからという理由で入局したという人が沢山いました。

入局すると、全く実地研修をしていないのに、外来をやり、病棟をみて。大学でぼろ雑巾のように勤務をして、月に5万円くらいの給料をもらいます。この給料から、当時はポケベルの通話料の約1万円を支払う必要がありました。勿論生活ができないので、バイトに行きます。そうして、年間の休みが1日だけ、という医者がゴロゴロいました。それが研修の義務化で変化しました。

まず研修したい病院へ大学5年・6年生になると見学に行きます。そして6年生の夏ころにテストを受けます。”私はA病院を第1希望、B病院を第2希望”と決めていき、マッチングサイトで登録をします。そして病院側は”研修医としてこの人が欲しい”と受験にきた研修医をランク付けして登録します。その両者を国がマッチングして、パソコン上に”あなたの研修病院は~です”と記載されます。集団のお見合いのようですよね。以前と違い、20万円くらいの給料が補償され、バイトは禁止となりました。しっかり実地研修を積む体制が整ったわけです。

私は、横浜市大を選びました。マッチングは、民間病院が人気です。その理由は、(医者が少ないから)研修医にも色々手技をやらせてくれるから、です。手技にはリスクを伴います。研修医がやった手技に伴うミスは研修医自らが被ります。医者になって僅か数か月にも満たないですが、資格上は”医師”であることに変わりがないからです。

研修医が終われば、嫌というほど手技はやります。そのため、僕は、安全にしっかりと学べるところが良いと思い、大学病院にしました。

<2008年5月14日産経新聞より>

 県厚生連佐久総合病院(佐久市)で平成17年1月に市内の主婦=当時(55)=
がくも膜下出血で死亡したのは医師の診断ミスが原因として、南佐久署は13日、同病院の男性医師(29)を業務上過失致死の疑いで地検佐久支部に書類送検した。

この件では、研修医が実名で報道され、さらに書類送検されました。研修医から大人気の病院でした。この記事を見たときに、僕の選択は間違えていなかったと思いました。

②横浜市大での研修医生活

一言で表現するなら、楽しかったです。つらかったですけどね。初期研修は1~2か月ごとにローテーションで勉強をします。今月は内科、来月は外科、再来月は精神科、といった感じです。しかも相手は”変人の集まり”である医師。環境になれるので精一杯。慣れたころには別の科です。けど、色々勉強ができました。机上での学問より、実際の患者さんを見た方が直ぐに理解できます。朝8時に病院に行き、夜11時半ころに病院をでる生活。外科のときは朝が6時になります。本当に大変でしたが、良い思い出です。

色々な経験をします。

一つ例として外科を記載します。すごい経験をたくさんしました。

外科は、よく言えば家族の感じ。悪く言えば奴隷のような感じ。僕は消化管グループでした。大腸癌や胃癌の患者さんなど。常に20名くらいの入院患者さんがいました。

朝早くに出勤して、全体カンファレンスの用意をします。その後、グループ全員の朝ご飯を買いに行きます。手術日はそれを手術控室に届けます。

8時ころから、手術患者さんを手術室にお連れして、各医師に手術準備ができたと連絡をしていきます。

日中は一緒に手術に入ります。手術中は下品な会話が繰り広げられています。下品すぎてブログに記載することができません。

13時ころにをみんなで食べに行き、渡されている財布で全員の会計をして。その後、午後の診察やカルテ記載をしていきます。手術前の検査、術後の検査スケジュール、患者さんの体調管理など、分刻みで仕事をしていきます。

17時ころから、各グループでカンファレンスがあります。その時に食べるお菓子をいくつか売店に買いに行き、その後、医師にコールして、お菓子を食べながらディスカッション。

カルテ記載をして、22時ころに帰宅します。夜は先輩医師に誘われて飲みに行ったり。

どうでしょうか。

③入局

消化器内科をやろうと決めていました。理由は開業をするためです。横浜市大の第2内科に入局しました。入局した年に、第2内科の消化器内科部門は解散になりました。横浜市大には、第2内科、第3内科、市大センター病院と、消化器内科が3つに分裂しており、それをまとめようとの流れになり、第2内科消化器は入局と共に解散しています。

その後、この3つの消化器内科は内紛をします。テレビドラマよりも、もっと汚い戦いが繰り広げられていました。凄すぎました。テレビドラマのよりも実際はもっと汚いというのはお伝えしておきます。

④病院からの派遣

消化器内科に入局をしました。入局がきまると、病院の派遣先が決まります。2月末に発表があり、4月1日からは別の病院で勤務するイメージです。最初の病院は、足柄上病院という県西部の県立病院でした。くじで決めた病院だから、そのくじに従ってね、と医局長に言われたのを覚えています。

さて、最初の勤務病院は、総合診療科でした。田舎の病院で、また県立病院であったので、診療科を増やすことができないというのもあり、総合診療科を名乗っていました。消化器内科に入局したのに、胃カメラよりも気管支鏡(肺がんの検査です)、消化器疾患よりも脳梗塞・肺炎の患者さん。外来は喘息メインの呼吸器内科外来でした。

勤務開始数日後には当直が開始となり、また外来も始まります。周りの先生に助けてもらい、頑張りました。

勤務2年目、医師の数が減りました。僅か3名で、入院患者さん約70名をみる必要があります。そこで、どの分野をみていくにかを話し合いました。重傷者をみる部長、消化器の処置の多い患者さんをみる先輩。そして僕はどうするのか。悩みました。

そんなときに部長より、「ガン末期の人はみんなに支えられて幸せだ。一方で高齢者はどうだ。元気に退院すると、あ~また介護かと嫌な顔をされ、亡くなると大往生と言われる。だから高齢者を幸せにする医療をしたい」と言われました。その時に、本当に癌患者さんは幸せなのか、疑問になりました。

そこで、ガン末期の方を僕はみたいと部長にお願いしました。それから、末期とされている方を常に10名以上入院でみていく生活が始まりました。

どのようにすれば幸せになるのか。旅行にいく手伝いをしよう、外泊させてあげよう、病室で酒盛りをしよう、1人1人の患者さんやご家族と向き合い、色々とやりました。皆さん、笑って最期を迎えました。この時の経験は宝物です。いつか詳細を記載します。

あるとき、若い肝臓癌の方がいました。末期ですとお伝えし、緩和ケアをする中で、本当に末期なのか、大学なら違う治療があるのか、気になりました。そこで大学病院で勤務をすることになります。

⑤大学病院での生活

僕の医者人生の中で、最も嫌な2年間です。苦しんでいる患者さんを目の前にして、転院させろ、追い返せと、先輩方から指示が飛びました。また、末期状態になりつつある方を目の前にして、しばらくすれば死が近いと本人が気づくので、それまで静かに待とうと言われました。こんなに酷い病院があるのかと思いました。

勿論、そうなった事情もあります。ベッド数が限られていて、予定外の入院は受けられない、高度な処置をするので予定外の患者さんへの対処は出来ないというもの。理解はできますが、僕は二度と大学では勤務したくないと思いました。

大学病院は良いところだと思う方、多いと思います。治療をしている最中は本当に良い病院ですが、それ以外はだめです。高度な医療機関になるほどに、医師の患者さんへの愛情は薄れていきます。処置に追われ、上司との関係性や論文を書くプレッシャーに押され、患者さんへの愛を向ける余裕が無くなるのかなと思います。それを皆さんに理解してほしいです。