コーヒーブレイク①<生まれてから大学を卒業するまで>
病気について色々記載をしました。ブログを記載している今日は日曜日。少し病気から離れた内容にしようと思います。私を知ってもらうためにも、少し医者ってどんなものか、というのを記載します。
①医学部入学まで
私は、親が開業医で、違う場所で開業をしていました。(病気で既に閉院してしまっており、別の場所で私は開業しました)
生まれたときから医者になることを使命とされていました。
3歳で塾に行きはじめ、小学校から私立に行っています。
中学生のころに、祖母が甲状腺癌の末期状態になり、家で療養をし始めました。気管切開していて、祖母は自らの気管にチューブを入れて痰を吸っていました。また胃ろうがあり、そこに栄養剤をつなぎ、自ら経管栄養をしていました。そんな中でも家事をして、本当に強い人でした。
家で療養している祖母のことが本当に好きでした。学校が終わると会いに行き、毎日1時間くらい、そばに座っていました。何をしていたのか、よく覚えていませんが、ただ、祖母の横に座っているのが好きでした。最期の方は錯乱をしていました。脳転移によるものだったと、後日聞かされました。この時に初めて、自分で医師になりたいという思いが僅かに芽生えたと記憶しています。
僕にとっての祖母のイメージは、元気な姿ではなく、自宅療養している姿です。毎日通ってそばに座っていたのは約半年でしたが、祖母との思い出は非常に大きく、幸せな時間でした。病気になってしまったこと、早くに亡くなってしまったことは非常に悲しいことですが、それをきっかけに、僕は思いっきり祖母と一緒の時間を過ごすことができて、幸せだったと思っています。今思い出しても、温かくて居心地の良い時間でした。
②医学部入学
昔から勉強は好きでしたので、言われるがままに医学部に進学しました。本当は経済学部に行きたかったのですが、家族と話し合って、医学部に収まりました。
医学部というとどのようなイメージでしょうか?クラスメートは変人だらけでした。頭が良いとされている集団では、アスペルガー障害(簡単にいうと頭の良い自閉症)やうつ病、統合失調症などの方が比較的多く存在するといわれます。”あ~医者は変人だらけ”という思いを強くしました。
後にこの思いは増していきます。”苦しんでいるときに誰かが声をかけてくるなんてビックリ”と驚く同級生や、”その性格で医者になってはいけない”と言われたという同級生、猫と会話をする同級生など、面白い人は沢山いました。
また、他の学部との交流が一切なく(大学にも拠りますが)、1学年100名(今はもう少しいます)。男女比は2:1。今まで勉強しかしてこなかった人たちです。しかも進学校は男子校・女子校が多く、中高一貫です。私が進学した高校は、教師まで全て男性という徹底した男子校でしたので、数年来女性と話をしたことがありません。そんな中で、共学の学校に入るため、みんな浮かれ、付き合い、結婚した人も沢山いました。
医学の勉強は本当に楽しく、学んでいることが幸せでした。大学に入ってから、あ~僕の目指していたものは医学だったのかと思いました。そんな中で出会った日本医科大学糖尿病科の南史郎教授が、「自分の親より年上の人に対して、甘いものを食べるなとか、もっと運動をしろといった生活指導をしないといけない。そのためにはそれ相応の人間形成をしないといけない」と語ってくれました。心に響きました。勉強の合間で本を読んだり、音楽鑑賞をしたり、美術館巡りをしたり、色々な経験を積極的にしました。今思えば本当に良い経験をするきっかけを与えてくれたと思います。ただこの教授は、サッカーのユニフォームをきて診察をしていました。変人ですよね。
大学在校中は、冷水につけると感覚が鈍くなるといった生理学実験や、マウスに薬を投与して反応をみる薬学実験、人体解剖から学ばせてもらう解剖学など、沢山の学問を学びました。どれも楽しかったです。しかし、どの授業も同級生は半分くらいしか出席をしていません。大して勉強もしないで、みな医師になっていきます。
大学4年生になると、臨床研修をします。各科を2~3週間ごとにグルグル回り勉強をします。大学には附属病院が4個ありました。4個の病院の各科をグルグル回ります。大変でした。けど、楽しかったな。
医師免許がないので医療行為はしません。医療行為はしませんが、それ以外は医師同様に経験させてもらえる大学だったので、本当に楽しかったです。大学6年生は、研修医への就職活動と、医師免許を取得するための勉強が主になります。こうして大学を卒業しました。
医学を勉強することが楽しくて仕方なかったので、空いた時間は人間形成に使ったのみ。結果的に次席で大学を卒業しました。卒業後の人生は次の項に続きます。